住みたかったな、パリ。
小学生の時にパリに住む、と卒業アルバムに書いたほどの夢見るガキンチョだった。
そっちの方には才能不足で進めなかったけど、
いまだにパリに憧れる、勘違いはなはだしいオバサンだ。
独身時代はせっせと6泊8日のパリを楽しんでいたけど、
今はかなわぬ夢、そうそう見果てぬ夢だ、ラ・マンチャの女です。
昨日の天皇の料理番、オンデマンドで3回見ました。
冒頭のシーン、風の香り、陽の光、5月位のパリなのかな、ステキの10乗だ。
あの時代・・・・もう一度、好きな時代で生きなおしていいよ、と言われたら、
間違いなく、エコール・ド・パリ、その時と言うと思う。
徳蔵が1910年にパリに渡った頃、
日本の洋画画壇からは、浅井忠、安井曾太郎、梅原龍三郎達、が渡仏していた。
少し遅れて、藤田嗣治、佐伯祐三が。
藤田嗣治なんて、父親が軍医で森鴎外の後任だったというのだから、
あの舞姫の時代になる。
「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと靜にて、熾熱燈しねつとうの光の・・・」
高校で習った大好きな話だ。
・・・・今日は休みなので、朝からハロワに行き、一仕事終わり。
ムチャクチャ思い出に浸って過去にバックフィーチャーします。
佐伯祐三はその頃、モジやピカソ、ドランなどと共にモンマルトルの洗濯船に住んでいた。
徳蔵が天皇の料理番となるべく帰国、という事がなければ、
きっとこの芸術家たちと交流があったかも・・・。
でも画家たちはその頃は貧乏の極みだったから高い料理はムリだったかもしれない。
貧乏と芸術との狭間で夭折したのが、モジリアニであり、佐伯祐三であって、
その佐伯祐三と初期の画風が類似していた荻須高徳さんなどは、
全く貧乏と縁のないような人生で、あの頃を想像するだけで、胸キュンになります。
そんな、まだ日本人がこれから活躍という時代に、
郷ひろみ(実際は外交官の栗野慎一郎)は、
「芸術の為に渡仏は多いが、料理でとは」と言ったくらいなので、
閉ざされた門だった料理の世界に、身一つで、パリに乗り込んだ徳蔵がカッコ良かった。
テレビを見ないので、佐藤健も今回、初めてみさせてもらったけど、
なかなかすごい俳優さんだと思う。
スッとした爽やかさな印象だけど、ふと思った。
真田博之と似た感じ・・・きっと下顎のかみ合わせの感じかな。
そんな事を言ってたら、今度は「ぼくたちの失敗」が浮かんできた。
森田童子のこの歌、いいよな、とまたユーチューブで寄り道。
そうだった、あの頃、とまた40年近い前の青春を思い出す。
学生運動が終息し、アジビラも見なくなってきた頃。
つきあっていたのが、学生運動での闘争を終えた後の彼だった。
この話は、長くなりそうなので、いつか投稿しようと思います。
折角の至福タイムだったのに・・・娘が帰ってくるらしい。
娘の事も平気で了解取らずにアップしてるので・・・このブログは内緒です。